2024年の9月に独立をしたタイミングで、整体師として13年目になりました。
これまで私が整体師としてどのような環境で学び、どんな考えを持って施術に向き合って来たか。そして今後はどうして行きたいか。それらを書き示してみました。


目次

1.整体の学校に入学。

2.初めての修行先。そして現場に立つ。

3.基礎を作るために外に出る。

4.施術をやめる。

5.再び施術を始める。独立心の芽生え。

6.リラクゼーションでひたすら施術。そして独立。



1.整体の学校に入学。

2011年の春、整体の学校に入学しました。東日本大震災があった直後で、入学年は図らずとも忘れられないものとなりました。27歳でした。
まず、25歳の春に高卒の私が(正確には専門学校中退)、なんとか人生を変えようと奮起して起こした大学受験を試みましたが、見事に受験すらできずに挫折。それから進路を模索してたどり着いたのが整体師の道でした。


大学受験で割と大層な失敗を犯した私は反省し、実直に物事を進めるために、1年かけて整体の学校選びをしました。
私が学んだ整体の学校は「カイロプラクティック」という、アメリカ発祥の民間療法を教える所でした。ただ本場のアメリカや複数の国では、カイロプラクティックは医療の分野に入ります。つまり「ドクター」となるのです。


現在その学校は無くなり、直営のスタッフを教育する研修機関として残っていますが、私の母校『大川カイロプラクティック専門学院』は、アメリカでカイロプラクティックを学んだ学院長が作った2年制の学校でした。

カイロプラクティックと言えば、背骨を「ボキボキ」する治療で有名ですが、実はカイロプラクティックの中でもいろいろ流派があり、私が学んだカイロプラクティックでは「筋肉の治療・関節の治療・生活習慣の指導」という3本柱で施術を組み立てる所でした。特に筋肉の治療「トリガーポイントセラピー」は、当時では大川カイロプラクティックの特色だったと思います。


「痛みの原因になる、筋肉にできるコリ」とよく表現される「トリガーポイント」を探し、それをピンポイントで刺激する施術は、指圧のツボ押しのような体感で痛気持ちよく、受けて側にとっても何をされている分かりやすい施術です。実際に私も学校を選びにそれぞれの学校が経営する治療院で施術を受けましたが、大川カイロプラクティックの施術が「痛い!!」という強烈なインパクトで印象に残り、それが最後の決め手となりました。


学校では基礎医学(解剖学、生理学、病理学、機能解剖学)とカイロプラクティック哲学を座学で学びながら、実技も覚えて行きました。座学と実技共に小試験が繰り返されるので、適当にやれるものでは無かったはずですが、今振り返れば大分甘かった。自分の姿勢が。


日中は仕事をし、夜間部に通っていました。授業終わりも大体居残って手技の練習をしてました。
しかし当時は、自分の右腰やお尻のコリをとにかく押してもらいたくて、施術を受けるばっかりでした。それまでマッサージを含め施術を受ける経験がほとんど無く、かつ自分の身体の辛さも相まって、押される気持ち良さを知ってしまったのでしょう。思えば、この時は「施術者」という意識が薄かった言えます。

2年生になると授業自体はほとんど無く、学校が直営している整体院で、インターンを決められた時間消化することがメインです。
当時、学校の直営院は増え続けている状態で、学生はほとんどそれらに就職する形になります。私も2年生になると同時に就職をしました。1年生の後半から働きたい、直接見てみたい院にインターンに行き、自分の中で絞り込んだ7~8つの院の中から就職先に『五反田整体院』を選びました。
私が整体師として最初に修行した場所で、そして結果トータル「7年」という、長い年月お世話になった場所です。


2.初めての修行先。そして現場に立つ。

整体の世界に足を踏み入れて2年目、現場に立つことになりました。とは言ってもしばらくは雑用を覚えこなし、その間に院長や先輩の施術を観ながら勉強、そして手技の練習。患者さんの身体に触れるられる機会は、先輩が治療目的の施術を終え、後半の慰安目的のマッサージに入る時になります。
そのマッサージに入るにも最初は、院長に施術をして合格をもらってからになります。私は勤めて1カ月ぐらいで許可をもらえました。


それから自分が患者さんの担当を持つようになるまでには約1年間、院長の許可を得るのにかかりました。勤め先の院のスタンスにもよりますが、五反田整体院は患者さんの担当を診させるまでには他の院に比べて慎重な方でした。それだけ、ひとりひとりの患者さんを診るということの責任感があったからです。


ちなみに私が学生の頃の五反田整体院は、学生、大川グループ院の人達から “有名” な院でした。 “厳しい所” として。
バリバリの体育会系出身の成木院長の下、鬼のような指導で一言で言えば「ヤバい所」として有名でした。でも、もちろん院の売り上げも優秀。それだけ患者さんからの支持もある所ということです。
なぜ私がそんな場所を選んだか?


学校にはまだ就職先が決まっていない学生のため、スタッフを雇いたい各院の院長がアナウンスに度々訪れていました。そんな中、五反田整体院の成木院長の話が他とは違う所に私は惹かれました。

「身体の使い方を考えた施術をしている」と院長は言いました。


大学時代に合気道を習っていた院長は、合気道の身体の使い方をベースに、身体的合理操作を考えた施術をしていると話をしていたのです。
古武術の甲野善紀先生や、『究極の身体』の著者、高岡英夫さんの本を読んだりして「身体の使い方」に興味を持っていた私には、成木院長の話がとても響きました。
それに人生の立て直し、整体師として今度こそ自分の進路を作るんだと意気込んでいた私にとって、無理をしてでも厳しい所で挑戦しようという思いもありました。



成木院長の施術は大川カイロプラクティックグループの中では異端でした。学校で習う施術の型があるのですが、私が勤め始めた当時ですでに原型をほとんど留めていませんでした。それは、日々患者さんと向き合う中で常に向上し、変化し続けた証でもあります。


実際に成木院長の施術を初めて受けたときの印象は今でも覚えています。
筋肉の触り方、押し方が他とは違います。刺激自体は「強い」ので、いわゆる強圧の部類に見られると思いますが、力任せにギュウギュウと押す施術では全くありません。むしろ、力が入いる、力んだ施術を悪とさえしていました。いかに力まずに「押す」ではなく「触れる」か。
それまで受けたことのない筋肉の触れ方、深い所まで届く感じ、筋肉と会話しているかのような刺激は、今でもオリジナルだと思います。患者さんで「アトラクションみたい」と院長の施術を受けながらリアクションされている方もいましたが、まさにそんな感じ。
始めはとにかく、それを真似よう、できるようにと来る日も来る日も筋肉に触れる練習でした。

患者さんを診るということは、ただ筋肉を上手に押せるだけでは成り立ちません。施術をして「マッサージと何が違うんですか?」と最初の頃はよく言われてしまいました。しかも、手技自体もなかな上達せず、上手く筋肉を捉えた触り方ができないとただ「弱い」施術と受け取られます。なので患者さんから「もっと強く」と言われることも多々ありました。
施術は痛みなどで悩みを抱えた方を診ます。そのような方達に何を伺い、どんな事を伝えられるといいか、コミュニケーションも必要不可欠です。成木院長や他の先輩先生達はみな陽気なキャラでもあり、面白い会話も踏まえながら患者さんを元気にして行きます。当時の私は、とにかくそうできなければ、そう思いながらもそうならない、上手くいかない自分と向き合う日々を過ごしていました。
「施術が辛い、患者さんを診るのが辛い」、それがその時の正直な心境でした。



目の前の環境、周りのやり方では上手く行かない頃、『野口整体』に興味を持ちました。「整体」という言葉を普及したと言われる「野口晴哉」氏が祖の整体です。野口晴哉氏の著書はそれ以前にも読んだことあったのですが、東京の自由が丘に「天才がいる」と知り、実際に施術を受けそれから憧れた整体師の人が行う施術が、野口整体でした。
背骨を一つ一つ観て、悪いところを調整する施術は、とても理的で惹かれる所でした(カイロプラクティックもベースはそうなのですが)。「力」ではなく「理」で行う施術は、当時の私にとっては「正しさ」にも取れました。


しかし、施術のやり方は普段自分が行っている施術とは真逆で、強い刺激が職場でやっているやり方だったのに対し、ソフトどころか何をやってるか分からない、触れるだけのような施術が野口整体です。なので、それを普段の施術に取り入れて行くのはとても無理な話でした。身体に対する考え方はとても共鳴することはありますが、施術のやり方は違う。少し野口整体系の事を習ったこともありますが、その道で本気でやろうと思ったら環境を変えなければならない。
自分の興味の持つ整体の方向と、現実の持ち場でのギャップは広がるばかりで、自分の興味のあることを学んでも学んでも、それを上手く現場で活用できない状態でした。


整体師4年目の春、母校の大川学院で座学の授業のインストラクターに挑戦する機会がありました。「解剖学」や「生理学」、「病理学」を生徒に教えるのです。
結果は1カ月でクビになりました。
座学のインストラクターを誰もやろうとしなかった中、進んで手を挙げた勇気は買われましたが、まったく実力が伴っていませんでした。教えるって本当に理解していないとできません。自分の現状を知るとても良き機会でした。


そんなこんなでとにかく上手く行かない、結果も出せない現状を打破するために、五反田整体院の外に出ることにしました。
五反田整体院は長年続いている院で、院長のどんどん変化する施術のスタイルをそのまま真似るのは、私にとっては基本が無く応用をやり続けている状態だと思いました。基礎ができていないと。
なので、自分の基礎を作るためにそれを学べる所に出ることにしました。


3.基礎を作るために外に出る。

大川カイロプラクティックグループの別の院に勤めました。学校で習った型を基本にやっていて、かつ施術の内容を医学的に説明をするタイプの先生の所へ。五反田整体院でのやり方はすべていったん捨て、忠実にそこのやり方を学んで行きました。


患者さんに対しての向き合い方が「攻め」の関わり方だった五反田整体院とはどちらかというと真逆の「待ち」の関わり方をする所でした。患者さんとのコミュニケーション含め、全く別のやり方を身につけ実際に行った経験はやはり良かったと思います。
そこでも様々な本も教材として読みましたが、最相葉月さんの『セラピスト』や心理学者の大御所、河合隼雄先生の本(どの本だったか未だに分からない)で読んだ “相手を信じて待つ” という治療のスタイルは、今でも私の根っこの一つに残っています。



その後にまた別の院へ。
その院では、私が入るタイミングでスタッフが数人抜け、私ともう一人の院長代理の2人で、ほとんど院をまわす形となりました。なので、それまでよりは沢山の患者さんを診ることができました。
学びに「質」も大事ですが、やはり「量」は強い。とにかく日々沢山の身体を触ることは自分の「手」を作るよい時間だったと思います。


ちなみに、3つ目の院に入る前に一度マッサージ店で働こうとしました。
面接では手技のテストもあるのですが、その時に言われたのが「人間性には全く問題無いけど、手技のレベルがうちじゃ通用しないね」と。
当時はショックでしたが、今思えば、手技のリズムとかがリラクゼーション的では無かったのもあると思います。
悔しい思い出ですが、その時そこで、リラクゼーション店でまだ働かなくて良かったとも結果思います。


話は戻しまして、一緒に働いていたスタッフは私より1年、大川学院での先輩でした。当時で確か6,7年は整体師として経験しています。大体それぐらい経験値がある先生だと、新しい手技を試したりする以外はいわゆる「練習」はしないのですが、その先輩は時間があれば「米山くん、身体貸して」と常に施術の練習をしていました。職人気質なその先輩の姿勢と、実際に何度も施術の練習に付き合った経験も、私の中では成長につながったと思います。ただただ手技に向き合い、施術のことを考え意見を言い合う。日々コツコツ重ねるその練習が、結果自分の手を作ることになりました。

その頃の私の施術のスタイルは、学校の基本的な型をベースに、「解剖学」などを基にした施術をセミナーなどで学びながら行っていました。
「筋肉」、「関節」、「生活習慣」を軸に、カウンセリングから検査、施術してセルフケアをお伝えして施術プランの提案、という一連の流れが身体に染み付く感じにはなりました。
また、新人スタッフの教育で手技のマニュアルを作ったりしながら、施術の目的、効果、手技ひとつひとつの意味を考え直し言語化することで、自分の施術の基礎ができあがってきたと思いました。


その場所で丸2年が経つころ、そこを離れることにしました。
以前よりも結果が出て、整体師としての基礎もできては来ましたが、いつも自分の中でつきまとう「迷い」がありました。それは「この仕事は本当に自分に合っているのか?」でした。


その当時の私にとって施術をすることは「ワクワク」するものではなく、「緊張」や「恐さ」がつきまとうものでした。「この仕事が天職!」や「3度の飯より施術が好き!!」などと思えることはありませんでした。
施術がワクワクするものであればもっとずっと上手く行くと思うのに、そうではない自分は「この仕事が向いてはいないのでないか?」と何度も問いかける日々でした。それは、その時だけというよりは、整体の仕事を始めてからずっと抱えていた不安でありました。
35歳になっていた当時、その後の将来も考えて舵を切るのには今しかないと考えました。


しかし何から手をつけたらよいか、若くもないし経験のない仕事はそうそうできないし、結婚もしてるし。そう考えていた所で、以前働いていた五反田整体院で成木院長にお願いをして「施術をしないで雇ってもらう」機会をいただけることになりました。


4.施術をやめる。

2019年の春、五反田整体院に整体師としてではなく、事務員?としてカムバックすることになりました。ぶっちゃけ、院の規模にもよりますが、数人しかいない整体院で、施術をしない人間はあまり必要ではないと思います。施術以外の仕事がそれほどないからです。
雑用や集客などはスタッフで大体賄えるでしょう。なので、それを受け入れてくれた成木院長には今でも頭があがりません。


私の仕事は事務、雑用全般の仕事はもちろん、「広報活動」的なことをしました。主にはSNSでの宣伝や、HPを作り直したり、各先生が個人でのイベントを開く際のチラシを作ったり、カメラマンなどしたりと。後は助成金などの申請なども行いました。


なぜ事務仕事を選んだか?もちろん整体院で他にやれるべき仕事が無いということもありますが、それまでの整体院での仕事場でも、案外パソコン仕事などが嫌いではなかったからです。よく、ブログなどの文章なども書きましたが、PC作業で良さそうなアイデアが思いつくと、意外に夢中でやれたりしました。それが言わゆる「自分に合っている仕事」なのかもとも思ったりしました。

日々の業務にイベントの手伝い、またプライベートで自分たちの結婚式を挙げさせてもらうなど、割とやることには困らなかったので、暇を持て余すなんてことはありませんでした。
毎日やることとやりたいことはあったので、それに没頭しながら気が付けば半年は過ぎていました。
そんな生活も続いたある時、ふと思ったのです「最近、緊張していないな」と。


施術をしている時は、患者さんに入る前、特に新規の方などはやはり緊張感がグッと上がります。
その「恐さ」を感じている自分がダメだと思っていました。
しかしホントに勝手なもので、緊張が無い日々が良いと思っていたのに、現実はちょっと違うかもと、思うようになっていました。

そんな胸中を抱くようになっていたタイミングで、長年勤めた先生の1人が五反田整体院を卒業することになりました。その時に院長から、そろそろ事務仕事だけだと厳しいし、1人抜けることで患者さんを他で受け持たなければならないので、施術を考えてもらいたいと言われました。
そうして再度、整体師になることを決意しました。

ちなみに今は、施術することがワクワクするようになったか?
答えはNOです。
しかし、一人一人のお客さんの身体を診ることに責任感を持つ「恐さを感じる」ことに否定しなくなりました。今は「プロ」の仕事をして社会の役に立つことがやりがいだと思っているので。
それでも、アルバイトで他の業種の仕事をすることになって、改めて整体の仕事が面白いと感じている自分にも気がつきました。

私が事務員として五反田整体院に戻ったとき、現場の先生たち以外ほぼ否定的でした。
そのような中、受け入れてくれて経験させていただいた貴重な時間が、整体師としての覚悟を決める代えがたい事となりました。本当に、みんなには感謝しかありません。


5.再び施術を始める。独立心の芽生え。


整体師に復帰して少し経ったころ、もう1人先生が院を抜けることになり、院長と副院長(奥さん)と私の3人に。そしてコロナが流行。
世の中的にも時代が変化するぐらいのインパクトがあったように、五反田整体院も開業以来初めての休院。その間に3人でミーティングを重ねながら院内のリメイク、オンラインでの試みをしたり。
そして営業再開から平常運転まで戻るのに耐え抜いたりと、それだけで時間の流れはあっという間でした。
しかしその間、初めに五反田整体院で施術をしていた時の自分の心境とは違う感覚になっていることに気がつきました。「自我」があると。


院長や副院長のやること、やりたいことに否定はありませんでした。ただ “自分がやるのはこうしたい” と思うことが度々ありました。
施術に関しては、基本自分のやりたいようにはさせてくれていました。ただもっと根本的なこと、それは院内の雰囲気作りから施術の方針、集客で発信すること。それらに100%乗れていない自分がいるのを実感しました。


しかしそれは当然のこと。あくまで五反田整体院は成木院長の軸の整体院であって、それでも他と比べれば、スタッフみんなで作り上げてきた尊い場所ではありました。けれど、最後の全責任を背負って構えているのは成木院長。その色は崩せないし、それに惹かれて来る人はやはり多いと思っています。
だから “自分でやるしかないな” と、思うようになりました。もう言い訳が一切できない、自分のやり方で、考えでやったもので向き合おうと決意しました。



コロナ禍を乗り切って、しばらくしたら院を解散する運びとなりました。
始めは移転する話が持ち上がったのですが、その時に新しい場所はどうしたいかとそれぞれ意見を出したらバラバラ。もちろんは私は自分でやりたいと。
なので、20年は続いた五反田整体院を閉めることとなったのでした。

ちなみに、この時の私の施術の考えは「気持ち良くて効果があるもの」でした。


施術の方向性を悩んでいたとき、まずは「自分がお金を払って通う場合に、その価値がある施術とは?」と考えたら前途したものでした。
手技で出来ること(押したり、揉んだり、揺すったり、摩ったり、伸ばしたり)で解剖学的、生理学的にも説明できることで現状できること、それが「気持ち良くて効く」施術でした。


他の業界でもそうかも知れませんが、整体の世界でも数えきれないほどの「○○テクニックセミナー」なるものがあります。始めはそういうものから学ぶのも良いですか、結局は「切りがない」ことに気づきます。
自分の施術の基礎が無いとき、「自分の頭で考えられないのはダメだな」と思いました。
AテクニックがだめならBテクニックみたいに、思考できずに施術をしているのは結局はテクニックの数を増やして行くしか方法がありません。しかし現場で起こることは一人ひとり、その時その時で違う身体の状態。思考できない方法は応用ができません。臨機応変にできません。
しかし、応用ができるのは基礎が無いとできないのです。
ではその基礎を何にするのか?


東洋医学の経絡やカイロプラクティックの哲学などでも良いとは思います。しかし私にとっては「身体の作りと仕組み」を知ることが一番信頼できます。その事実に一番近いのは「解剖学」や「生理学」の現代医学だと思っています。
物が壊れたときなんかも、そのものの構造や機能を知っていると、原因や直し方の考察ができます。雰囲気で物は直せませんから。


現在はもう少し考えは変化しています。いわゆる現代医学的な身体の理解がまだまだ全然足りていないので、それを深堀して行くと、施術で身体に対してできること、やれることの視点が変わって行きました。
そして「プロ」として「結果」をより優先に考えるようになると、「気持ち良さ」は必ずしも伴うかわかりません。ただ、身体にとって良いことをするのは結果「心地よい」と感じるのではないかとは思いますが。

話は戻しまして、そうして2022年の春、五反田整体院を解散。私はその少し前から住まいを東京から鎌倉に移しました。


6.リラクゼーションでひたすら施術。そして独立。

五反田整体院解散に伴って、職場を失うのは私の奥さんもでした。それで、奥さんも独立します。
まずは奥さんの独立を優先し、当分は生活を養うためと、いずれ自分の開業のための資金集めのために、私はすぐに独立の道とははなりませんでした。

独立して自分の店を持つまでは整体院(治療系の)で働くのはやめようと思いました。
患者さんを担当制で受け持っても、近い将来にその場所を離れることが分かっているので、担当者が辞めると患者さん的にも困るだろうと思ったからです。
これまでも数か所整体院で働いて、それぞれで私についてくれた患者さんを診続けられず、迷惑をかけたことはやはり気に残っているからです。
それと、また新たな院長の下で修業みたいなことはさすがにできないなとも思いましたので。
もちろん学びはしますが、前述したように「自分の頭で考える」ことで積み上げることが今は大切だと考えるので、そういう環境で働くのはやめようと思いました。



そのような進路になるにあたって、私はリラクゼーション店で働くことにしました。
鎌倉に行く前に東京の自宅近くで初めてリラクゼーション店勤務を経験し、鎌倉に移ってからはまずは大手のリラクゼーション店に勤めました。


「ザ・東京」というような場所にあるオフィスビルで、広いフロアを新人の教育場所として設けられるほどの大手リラクゼーション会社は、今までに経験したことが無かった「エリート」な環境でした。
まったくのド素人でも、その研修をクリアすれば一応お客さんに施術ができるようになるしっかりとしたマニュアルがあり、研修でも現場でも会社の「クレド」を毎日言い、自分の意見を人前で発表することが当たり前になる環境。畑が多少違いますが、これまで私が働いてきた整体業界には無かった「大企業」的な強さを感じた経験でした。


しかし、学びもいろいろありとても面白い環境ではあったのですが、お金的に続けられませんでした。独立したてで収入がほぼ無い奥さんがいる中で、2人分の生活を賄うには到底無理なお給料だったので辞めざるを得ませんでした。


そして次に選んだのが今尚、お世話になっている(2024.10月時点)鎌倉の老舗リラクゼーションサロンです。
そこは大企業と打って変わっての個人店。しかし在籍の施術者はみな10年前後のベテランばかりの環境です。施術のやり方も、治療系の矯正などは禁止ですが、それ以外は自由。自分の実力がもろに反映される場所になりました。

施術者の中でもあまり違いを感じない人もいるのですが、私の中では「リラクゼーション」と「治療系の整体院」では施術の目的、スタンスが違うと考えています。「リラクゼーション」ではお客さんの要望を優先し(辛いところをほぐす)、「整体院」ではお客さんの要望を基に、施術者が先導して施術を行うという違いがあります。施術者とお客さんとのスタンスが違います。
なので、私の中ではリラクゼーション店で働くのはあくまで「慰安」を第一優先に、将来自分が再度やる整体院系の「治療」とは目的意識が違いました。
それでも、身体に触れるという行為は同じなので、手を磨き続けることはできました。

リラクゼーション店は常連さんも多いですが、店が観光地で駅前という立地相まって、日々沢山の新規の方が来ます。なので、いろんな身体に触れることができ、ここでも「量」をこなせることが結果として良い鍛錬の期間になりました。
鎌倉もコロナ以降は観光客が増え、特に「外国人」が圧倒的に増えました。お店にも普通に来ます。それまで整体院で働いた10年近い期間で診た外国人よりも、そこで触った外国人の数は1カ月で上回るほどでした。様々な人種で、ほとんど言葉も交わさず手の感覚だけで相手の身体を観る経験は、それはそれで貴重な経験です。


そんなこんなで鎌倉に来て3年目を迎える年に、独立することができました。
整体師としてのスタートが主に「筋肉の施術」からでしたので、基本は筋肉をほぐして、関節の動きを良くして、身体のバランスを整える。姿勢などの身体の使い方も見直してもらい、お身体の状態を改善していくのが私の施術です。
途中、ストレッチやテクニック的な手技も学び使ったりもしていましたが、結局、日常的に使っていないものはすぐに忘れてしまいます。そんな中でも、筋肉への押し方、触り方にこだわりを持った場所で多く学び経験して来たので、そこに他の整体師との違いは見出しやすいかなと思います。それは触れられないと分からないですが。


ただ、これからはもっと「身体の作りと仕組み」をさらに理解して、より「効果がある」施術になるよう研鑽して「プロの仕事」を提供し続けられるために精進して行きたいと思っております。


私の施術に対する考え方、やり方のヒントは現場で学んだもの、セミナーや本で得たものだけに限らず、日常さまざまなことで見聞きする、体験することに影響を受けています。
それでも、身体を「自然のもの」と捉え接する野口晴哉氏の思想は私にとって大きいものですし、奈良県にある『朱鯨亭(整体)』の店主、別所愉庵先生の「観察」することの細やかさは、私の整体師としての根幹にあります。


整体師の力量は「観察眼」にあると思っています。
目の前の現象(身体の状態)をどれだけ細かく正確に把握できるかで自ずとやることも、できることも分かってくると思うからです。それには「身体の作りと仕組み」の理解も必要ですが。
目の前の問題を解決しようとする時、現象を確かめもせず対処法だけをやるのは論外ですが、しっかりと自分の五感で確かめ、ひとつひとつに理を持って行えるようにしたい思っています。